2006年02月01日

大乗院

インターネットで嵯峨立の記事を探していたら、白い国の詩と云う文集2005年1月号に下記の事が記載されていた。

 奥州の民族文化と民衆運動の中に
 ・・・登米郡嵯峨立村の大乗院などの修験者がいた。
 ・・・・・・・。
とある。

興味をもち、その大乗院はいったい何処に在るのかと色々と調べてみた。

 本院は、今廃寺となっているが、昔は羽黒羽修験で、嵯峨立村内の鎮守、熊野権現社三社、天照皇神宮、雲南権現社等五社の別当院であった。
本院の開祖は良寿院弁盛で、但しその開期年代は、寛永年中に記録を焼失したので不詳であるとの伝えがある。
参考文献:錦織村史

 又、代々神官職であった一門の記録に依れば、開祖は良壽圓弁盛で、文安五年(1448年)とある。
歴代の神官職の名前を見ると
9代  大乗院信○  神祇少  寛永十六年  1639年
11代 大乗院盛源  神祇少  元禄五年   1692年
13代 大乗院盛致  神祇少  享保二十一年 1736年
   ・
   ・
   ・
18代 大乗院孝道  神祇職  明治 とある。
19代〜24代 迄は、宮司であった胤沢の姓である。

参考文献:平々凡々抜粋
我が家の開祖は室町時代「熊野神社が大字嵯峨立字入澤に鎮座す。祭神は家都御子神にして、天正元年(1573年)十月十八日富国領主葛西三郎親信之を観請せりと言い伝え」とあり。この神社の神職であり、修験寺院の導師でもある開山良壽院弁盛(神祇職源朝臣○盛)と文献に載っているが年代がやや異なる。
しかし、嵯峨立内の導師は、大乗院が殆ど勤めているとある。
この時代は、宮城県北部から岩手県南部にかけて、羽黒山の修験者(山伏)が多い地帯でもあり、もしかすると我が家の先祖は山形県(庄内地方)出羽三山の羽黒山修験者の流れでないだろうかと思われる。
(○の部分は、変換できない漢字)

文安5年から続いた嵯峨立村の神官は、24代で途絶えた。

そう云えば記憶を紐解くと、親父に聴いたことがあった様な。
神官の住まいは昔、今の、入沢熊野神社の付近だったと伝え聞いていると、教えられたような!

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posted by 桜 at 17:05| 宮城 霧| Comment(0) | TrackBack(0) | 記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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